道元禅師の禅戒について
師家会副会長・智源寺専門僧堂 堂長
高橋信善
※漢文部分にて本来の記法と異なる部分がありますがご了承ください。
第4章
釋迦牟尼佛が菩提樹下において「大地有情非情同時成道山川草木悉皆成佛」と言われた言葉は悟道・成道された時の言葉としてあまりにも有名です。道元禅師も「正法眼蔵谿声山色」「正法眼蔵古鏡」「正法眼蔵行持上」「正法眼蔵眼睛」「正法眼蔵説心説性」「正法眼蔵発無上心」「永平広録」に二か所、「学道用心集」でも取り上げておられます。又瑩山禅師も「伝光録」の首章に取り上げておられます。
これらの事柄からこの語句は両祖様が宗乗の教儀の根幹に置かれた教え、教理と言うことができると思います。しかしながら古い経典にはこれらの言句はみられません。
まず歴史的な流れから説明しますと、釈尊亡き後、紀元一世紀ごろから新しい救済理念としての菩薩行や華厳経典などの多くの大乗経典が作られます。「如来蔵思想」と言われる大乗仏教の展開です。道元禅師も「正法眼蔵弁道話」に於いて、「いまわが朝にったはるところの法華宗華厳経ともに大乗の究意なり」と卓上されています。正しくは「大方庚佛華厳経」といい、「般若経」に次いで現れた初期大乗経典中の代表的なものです。
その「華巌経」には、
「奇哉!奇哉!大地衆生皆ナ具ス二如来ノ智慧徳相ヲ一但困テ二妄想執着ニ一、而不レ能二證得スル「一」とあり又、「心佛衆生三ニハ無二差別一所ノレ講ズル衆生心ト輿二佛心ト一無二無別、本来一體、心即是佛、佛即是心、一切衆生都テ具二足ス佛性ヲ一」
とあります。
そして時代が大部下りますが、「景徳伝灯録」の南獄下雲門宗第十世徳山慧遠禅師の法嗣、慮山開先寺善暹(せん)禅師章に
「・・・明星出現時我ト輿二大地有情一同時成道・・・」
とあります。
又、馬祖道一禅師の弟子の興善惟寛禅師は「景徳伝灯録」の中で
「無上菩提は、身に被らしむるを律といい、口に説くを法といい、心に行ずるを禅という。応用は三なれども、其の致は一なり。・・・律は即ち是れ法にして、法は禅を離れず、云何が中に於いて妄りに分別を起さんや。」
とあります。
明確に律(戒)と法と禅とは本来一つのものであると断定してあります。ここに於いて、後に「禅戒一如」と言われる言葉の淵源を尋ねることが出来ます。
このように大乗佛教と戒律の受け止め方を歴史的に見てきますと、大きな佛教の流れの中で支派としての大乗仏教の流れ(中国的展開、日本的展開)であり、高祖様の佛戒は、そのまた一支派の考え方ではないかと受け止められかねません。
しかし高祖道元禅師は「釋迦牟尼佛未ダレ説の経」、釋迦牟尼佛であろうといかなる佛祖であろうと、時、所、位の限界がある生身の人間では説き尽くせない「未説の法」があると考えておられるのであります。
そこの所を「(真字)正法眼蔵三百則」の序で、
正法眼藏也大師釋尊已ニ拈擧シ玉ヘリ矣。拈得シ盡スヤ也タ未シヤ。 直ニ得タリ二千一百八十餘歳 法子法孫 近流遠派幾箇萬萬前後三三。諸人要スヤレ明メント二來由ヲ一麼。
このように道元禅師は釋迦牟尼佛にも未説の正法眼蔵涅槃妙心があり(拈得し尽すこと能わざる所の)法があり、しかも覚者となった師匠と弟子がその指す処のもの、阿耨多羅三藐三菩提を代々確認し伝えて来たとの確信であります。
高祖道元禅師様も瑩山禅師様も少しも迷う事なく「釋迦牟尼佛一見明星シテ我ト大地有情ト同時成道」と確認され、自他不二、身土不二、禅戒一如の道理を確認されておられます。別の言葉で申し上げれば「我と釋迦牟尼佛と同参」と言うことであります。釋迦牟尼佛と同じ境地に立って見れば「法・禅・戒」は一つのものであったとの確信であります。
(注)雪峰義存の弟子、玄沙師備(備頭陀)は「尽十方世界は是一顆の明珠」。
「備頭陀何ぞ遍参し去らざらんと。師曰、達磨東土に来らず、二祖西天に往かず」。
「我れは道はん、釋迦と我と同参すと。汝道へ、阿誰にか参ず。」の語録を残しています。また爲仰宗の祖、仰山慧寂(803-887)は、〈小釋迦〉と尊称されました。十五歳にして出家を志すも父母の反対にあい、十七歳にして二指を断って出家した。
「学道用心集」第六「参禅に知る可き事」に、右、参禅学道は一生の大事なり忽にす可からず、豈に卒爾ならんや。古人、臂を断ち指を斬る、神丹の勝躅なり。・・・この「指を斬る」は仰山慧寂禅師の得度の因縁を述べたものでした。
前の言葉で申し上げれば「我と釋迦牟尼佛と同参」と言うことであり、釋迦牟尼佛と同じ境地に立ったと言う確信であり、自分が現釋迦牟尼佛であると言うことであります。先程の経豪様の「梵網経略抄」にも「・・・故ニ佛戎トイフ。但先師モ未ルレ説、諸佛モ未ルレ説、戒アリ所所謂不殺死。不殺唯心。不殺三界。・・・」と説かれて、未説の「戒」 、未説の「教」、未説の「法」、未説の「禅」があることを力説されておられます。
釋迦牟尼佛未説の法として説かれた一端が「正法眼蔵」であり、「永平広録」であり、「永平大清規」等の著述であり、今回説戒の教本とさせていただいた「教授戒文」であります。ですから「教授戒文」には道元禅師のみならず釋迦牟尼佛のみ教え、法(禅)と戒(律)が混然一体となって説かれているのであります。
ここの処を近代の名僧、丘宗津老師は「霞丘老漢説戒」で
「誰れでも戒法と言えば佛教佛道を信じる者のみが守るべきもので、佛を信じない者は守らなくても好いように思っておられると思いますが、この戒と言うものは仰を信じると信じないとにかかわらず少なくとも人間と言えば何人もこの戒を守らずにはおれない、この佛道を踏まねばならない。いや、(この戒を)守り佛道を歩んだ方がより天理にもかない、自然の道理と自らの身心がぴったりと重なって佛ともなると言えます。
従いまして、世界中の宗教と言う宗教、宗派、宗旨の良さを信じ又行っているお方々がそれぞれその宗教、宗派、宗旨の良さを信じ又行っていることは間違いのないこととは思いますが、「禅戒一如」のこの高祖様のこのご戒法からすればその差が歴然としている訳です。」そして「戒をまもるは、わが心のすぢ目を守るといふことだ。各自の心のすぢ目を正しくまもる、それを戒をまもるといふ、戒をまもるが佛だ」
ともおっしゃっています。
高祖様は「戒」を、自分あるいは他人が守るべきものとしての「戒」とか、戒律と教団などと言うように.つにもているのではなく、人境一枚、時節因縁そのものになった時こそが、守るべき戒とか破る戒とかが成り立たない、「戒」そのものに生きていると言うことができる。「戒」「禅」一如と言うことができる。そこの所を「佛戒」と言うのだと言われている訳です。
「正法眼蔵八大人覚」に、
・・・これ八大人覚なり、一一各八を具す、すなはち六十四あるべし、ひろくするときは無量なるべし、略すれば六十四なり。大師釈尊、最後の説、大乗の教誨する所為り、二月十五日夜半の極唱、・・・
とありますが、以前はこの「ひろくするときは無量なるべし」のお言葉を肯うことができませんでした。しかし、法はそもそも無量無辺であって、二百五十戒のように数で限ることも、説きつくすこともできない。同じように、大人の覚知するところも佛智・佛性でありますから、八とか六十四とかに区切ることができない無量無辺であるわけです。
高祖様がこのような見地にお立ちになる迄には、色々な宗教的体験があって「現釋迦牟尼佛」として「禅戒一如」を説かれておられる訳です。このことは「宝慶記」「正法眼蔵随聞記」を拜覧してまいりますとはっきりと理解することができます。しかし、高祖様の事柄だけを追っていたのでは「私達が戒に生きる意味とは」、「禅はなぜ必要なのか」、自分と「戒」と「禅」が一向に結びつかないように思える人もあるかも知れません。
そこで「知事清規」孫陀利難陀のことをあげてみます。
「日本園越前永平寺知事清規」に、
・・・胎臧經(「大宝積経胎蔵品」)に云く、世尊迦毘羅城に在ますとき、佛、(孫陀利)難陀の受戒時至れりと知しめして、門に至りて光を放って一宅を照らしたまう。難陀云く、必ず是れ世尊ならん。使いをして看せしむるに果たして是れ世尊なり。難陀自ら看んと欲す。婦云く、若し出でて看ることを許さば、必ず出家せ令めん。即ち其の衣を牽く。難陀云く、少時あつて還らん。婦云く、濕額未だ乾かざるに須らく還るべし。答う、所要の如くなるべしと。・・・旦には世尊に順うとも、暮れには當に歸り去るべしと。・・・
即便ち家に還る。大道從り行かば、佛の還りたまわんことを恐る。乃ち小道從りす。仍ち佛の歸りたまうに逢う。樹の枝に隠れる。風吹いて身現る。佛問いたまう、何が故來ぞ。答う、婦を憶う。佛却って將て城を出でて鹿子母園に至る。佛問いたまう。汝曾つて香醉山を見るや不や。答う、未だ見ず。佛衣角に投じて飛び、須臾に山を見せしむ。山上に果樹有り。樹下に雌獮猴の一目無く焼かれし有り。竟に佛聞いたまう、天に何如ん。答う、天は無欲なり、何ぞ此れに比することを得ん。聞いたまう、汝天を見るや不や。答う、未だ見ず。
佛衣角に投じて尋いで三十三天に至ら令む。遊観して観喜園に至って、婇女を見、交合園等を見、種種の音聲を見か令む。一處有り、天女夫無し。
佛に問う、佛、天に問わしむ。天答う、佛の弟難陀、持戒して此に生れ當に我がが夫と爲るべし。佛、難陀に問いたまう、孫陀利に何如ぞ。答う、天を孫陀利に比すれば、孫陀利を以て瞎獮猴に比するが如し。佛の言わく、梵行を脩すれば斯の利あり。汝今持戒せば、當に此の天に生ずべし。時に佛共に逝多林に還る。
時に難陀、天宮を慕って梵行を修す。佛修僧に告げたまわく、一切難陀と其の法事を同じうすることを得ざれと。一切の比丘、皆輿に同じく住せず。坐より起つ。自ら念ずらく、阿難は是れ我が弟、應に我を嫌わざるべし。即ち往いて共に坐すれば、阿難も起ち去る。問うて言く、弟何ぞ兄を棄るや。阿難言く、(然り)、仁の行は別なるが故に相遣なり。問う、何の謂ぞや。答う、仁は生天を樂い、我れは寂滅を樂う。聞巳つて倍憂悩を生ず。佛又た聞いたまう、汝捺落迦を見るや未しや。答う、未だ見ず。衣角に投じて便ち諸獄を見せ令む。皆治人有り。有る處に人無し。佛に聞いたてまつる。佛、獄卒に問わ令む。獄卒答えて言く、佛の弟難陀、天に生ぜんと爲するが故に修行す。暫く天上に在って此の中に還り来りて苦を受けん。
難陀懼れて涙下ること雨の如し。佛に白して其の事を述ぶ。佛の言わく、天樂の爲に梵行を修すれば是の過有りと。佛輿に逝多林に還り、廣く爲に胎相を説きたまう。難陀因って始めて發心して、解脱の爲の故に持戒す。後に阿羅漢果を得たり。難陀尊者、俗姓は刹帝利、浄飯王の子、如来の俗弟なり。・・・
また、「佛説延命地蔵菩薩経」には、
法性は同體にして、無始無終、無異無別なれども、無明は異相にして生住異滅あり。是れ得、是れ失と。不善の念をおこし、諸の悪業をつくり、六趣に輪廻す。
とあります。
「知事清規」の(孫陀利)難陀が示していることは、私たちがどのような条件下に生まれ、どのように努力したならば、その果報は得られても、果報が尽きた時には地獄の苦しみに生きなければならない、ということだと思います。例えば、私の僧堂には色々な方々が出家修道を願ってきますが、超一流の学歴を持ちながら出家を願い、来た者もありました。今までのところは分かりやすく言えば、(頭はいいが)心と体がばらばらな方々でした。「佛説延命地蔵菩薩経」の説かれる通り、まさに「無明は異相にして生住異滅あり。是れ得、是れ失と。不善の念をおこし、諸の悪行をつくり、六趣に輪廻す。」の様相を示していました。
我々の現実的社会では、果報と努力によって世間的価値のある地位や福分や健康を得ているわけです。もちろん、社会的福祉の観点が必要でありますが。
ほとんどの人々はこのような社会的競争にさらされながら生きています。それさえも心がけなければ社会的な競争に生き残れないことは仕方のないことです。
ましてや、世間的価値を超越する仏道を目指すのであれば、世間的な果報や地位や福分に安住することは許されないことです。このような社会的価値観に対して、不変の価値観があることを示したのが「法性は同體にして、無始無終、無異無別なれども」の教えです。従って、私たちが法性(実相)あることを理解しなければ、佛の救いが何処にあるのかを理解できる訳がないのです。本当に佛の救いを求めるのでなければ、六道輪廻を繰り返し、無明(軽重はありますが)から無明(軽重)への道しかないのです。
ここを、「新豊吟」では、
・・・工夫到らざれば方圓ならず、言語通ぜざれば眷属に非らず。・・・
とも言われております。また、「典座教訓」には、
・・・道心無き人と、未だ會つて有道徳に遇見せざる輩とは、寶山に人ると雖も空手にして歸り、寶海に到ると雖も空身にして還る。應に知るべし他未だ會つて發心せずと雖も、若し一本分人に見ゆれば、即ち其の道を行得せん。未だ一本分人に見えずと雖も、若し是れ深く發心すれば、則ち其の道を行膺せん。既似に兩ながら闕かば、何以ぞ一の益あらん。・・・是こに於いて應に詳らかにすべし。「自を見ること他の如くなる癡人有り。他を顧うこと自の如くなる君子あることを。・・・生を貧り日を逐うて區區として去り、喚べども頭を回さず争奈何せんと。」須らく知るべし未だ知識に見えざれば人情に奪わ被ることを。憐れむべし。・・・若し事を貴ぶ可き者ならば、悟道の事を貴ぶ可し。若し時を貴ぶ可き者ならば、悟道の時を貴ぶ可き者歟。・・・
小難しい話が続きましたが、高祖様の戒、持戒と言うのは「大地有情非情同時成道」「身心脱落」の体験を経て、現釋迦牟尼佛としての戒・法でありました。私どもが、比丘二百五十戒、比丘尼三百四十八戒を守ると言う意味での戒ではなく、本来佛としての徳を発起する意味での戒・持戒でありました。つまり私たち自身の佛光であり、戒光であると言うことでした。ですから「正法眼蔵八大人覚」にもありましたように、佛光・戒光には限りがありませんから「広くする時は無量なるべし」となる訳です。
しかし、無量広大の佛徳が私たちに、それぞれに備わっていると言われても、それぞれの因縁、心の持ちようによって、その戒光を表せない我々であります。
だからこそ、実に様々な人生がある訳です、その様々な人生がなぜそうなるかを次に見て行きたいと思います。
出典 曹洞宗師家会「正法」第7号 (平成31年)